土も、水も、火も、この谷のもの。山の土を川の水で搗き、薪の炎で焼く——機械を使わず、家族の手だけで三百年。小鹿田焼の里は、やきものの工程がそのまま地形に刻まれた集落だ。
産地の物語
大分県日田市、福岡県境の山あいに源栄町皿山地区はある。九州北部では焼きものの里を「皿山」と呼ぶ。ここで焼かれる小鹿田焼(おんたやき)の起こりは、江戸中期の1705年(宝永2年)。江戸幕府の天領だった日田の代官が、領内で使う日用の器をまかなうため、山ひとつ隔てた小石原(現・福岡県東峰村)から陶工・柳瀬三右衛門を招いたことに始まる。陶工を世話したのが日田の黒木十兵衛、土地を貸したのが坂本家。以来この里は、黒木・柳瀬・坂本の三家の流れだけで継がれてきた。隣の小石原焼とは兄弟窯にあたる。
息子が一人で窯を継ぎ、外から弟子はとらない。窯元は作った器に個人の名を刻まない。同じものを、同じやり方で、里全体でつくる——この一子相伝が、技を集落の内に三百年ととどめてきた。土は近くの山から掘り、釉薬は藁灰や木灰から自分でつくる。動力は電気でもガスでもなく、川の水と、薪の火と、人の手だ。
今の状況
里に入ると、数分おきに「ギィー、ゴットン」と低い音が谷に響く。川から引いた水の力で、ししおどしの要領で杵が上下し、陶土を搗く「唐臼(からうす)」の音だ。この音は1996年に環境省「残したい日本の音風景100選」に選ばれた。成形は足で蹴って回す蹴ろくろ、焼成は薪をくべる登り窯。飛び鉋(とびかんな)、刷毛目、櫛描き、打ち掛け、流し掛け——道具で生まれる幾何学の文様が、小鹿田の器の顔になっている。
窯元は、2024年時点で9軒。後継の難しさを抱えながらも、土づくりから焼成まで全工程を手仕事で守る姿勢は変わらない。技法は1995年に国の重要無形文化財に、2008年には皿山と池ノ鶴の一帯が重要文化的景観に選ばれた。春の「唐臼祭」、秋の「民陶祭」には、窯出しの器を求めて全国から人が訪れる。
この土地の価値観
1931年、民藝運動の柳宗悦がこの皿山を訪れ、「世界一の民陶」と讃えて世に紹介した。著書『日田の皿山』『手仕事の日本』で、昔の面影をそのまま留めた里として記した。戦後にはイギリスの陶芸家バーナード・リーチも滞在して作陶している。だが小鹿田の器は、もとは殿様のための美術品ではない。山奥の集落が、暮らしのために焼き続けた民衆の日用品——だからこそ、名を刻まず、同じものを、変わらぬ手つきでつくることに意味がある。土地そのものが道具であり、自然に主導権を譲りながら手を添える。それが、この谷の流儀だ。
三百年、家族の手だけで焼き継がれた里。